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日本学術振興会研究費と科学研究費交付金の分野別割合にみる戦時と戦後の連続性 [論文紹介]

[位置情報]水沢光「日本学術振興会研究費と科学研究費交付金の分野別割合にみる戦時と戦後の連続性」『科学史研究』第54巻、No.272、2015年1月、1-18頁。

<概要>
はじめに
 著者は、これまで、現在の科学研究費補助金(科研費)の前身である科学研究費交付金創設の経緯を分析し、日中戦争下にもかかわらず、基礎的研究を重視する政策が実行されるに至った社会経済的な背景を明らかにしてきた。戦時下で要求された応用研究が進展する中で、大学の研究環境が貧弱であることが、研究を進める上での障害になっているとの認識が広がり、幅広い分野の基礎的研究への援助をおこなう科学研究費交付金が創設されたのである。1939年の科学研究費交付金の創設は、特定分野の応用研究推進から幅広い分野の基礎的研究重視へと政策の重点が移動したことを表している。それでは、1939年に始まった幅広い研究分野を振興しようとする体制は、戦争末期あるいは終戦後、断絶してしまったのだろうか。本論文では、1930年代前半~1950年代後半の約25年間における日本学術振興会研究費と科学研究費交付金の分野別割合の分析を通して、幅広い研究分野を振興する体制が、戦時から戦後へと受け継がれたことを明らかにした。

日本学術振興会研究費
 まず、第2節第1項で、1933年度~1944年度の日本学術振興会研究費について取り上げた。日本学術振興会研究費は、理学・農学・医学に比べて、工学分野を重視しており、分野ごとの研究費配分に偏りがあった。研究費配分の変化も激しく、戦時色の強まる1930年代末~1940年代半ばには、産業的、軍事的要請に基づく特別委員会や工学への配分が大きく増加した。配分の変化を促したのは、産業界からの用途指定寄付金や、軍部や官庁からの委託研究費の拡大だった。
ついで、第2節第2項以降で、科学研究費交付金について詳しく分析した。

創設当初の科学研究費交付金
 第2項では、設立当初の1939年度~1943年度における科学研究費交付金の分野別割合について考察した。科学研究費交付金では、各年度による分野別割合の変化が、前項で述べた日本学術振興会研究費に比べて少なかったこと、日本学術振興会研究費が応用研究に重点を置いたものだったのに対して、科学研究費交付金は、理学・工学・農学・医学の自然科学の各分野に万遍なく研究費が配分されたこと、科学研究費交付金の目的が広範な基礎的科学の振興にあり、応用重視の日本学術振興会研究費と相互補完の関係にあったことを示した。

科学研究費交付金の「性格変更」
 第3項では、戦争末期の1944年度~1945年における科学研究費交付金について検討し、万遍なく研究費を配分する体制が、科学の戦力化が叫ばれた戦争末期においても基本的に変化しなかったことを明らかにした。各分野に万遍なく研究費を配分する体制が、戦争末期まで続いた直接の原因は、配分を研究者に委ねていたことである。研究費配分に携わった研究者は、それぞれの研究分野の代表として選出されていたので、各自の研究分野に不利な形で、配分を大きく変えることは難しかった。また、文部省は、応用研究を重視する日本学術振興会研究費と、基礎的研究を重視する科学研究費交付金を、相互補完的なものだと捉え、戦争末期になっても、科学研究費交付金を幅広い分野へと配分することを容認し続けた。

戦後の科学研究費交付金
 第4項では、1946年度~1958年度における科学研究費交付金について検討し、終戦により戦時動員が解除された後も、各分野に万遍なく研究費を配分する体制が、継続・発展したことを示した。人文科学の割合は、戦時期に比べて大幅に増加し、農学の割合を上回り、理学および医学に匹敵するほどとなった。1939年の科学研究費交付金の創設によって誕生した自然科学の幅広い分野を振興する体制は、戦後、人文科学への研究費配分の増大という形で、人文科学分野にも拡大した。

戦時と戦後の連続性
 第5項では、1939年度~1958年度における日本学術振興会研究費と科学研究費交付金の分野別割合を比較検討しつつ、研究費配分における戦時と戦後の連続性について改めて分析をおこなった。日本学術振興会研究費では、自然科学4分野(理学、工学、農学、医学)の合計額に占める工学の割合が非常に大きく、1943年度および1944年度には70%近くに達している。一方で、農学の割合は5%前後と非常に少なく、各分野間の偏りが大きい。これに対して、科学研究費交付金では、割合が最も多い工学でも27~39%、割合が最も少ない農学でも14~19%と、各分野に万遍なく研究費が配分されている。

結論
 最後に、第3節では、本稿の議論を総括して、1939年の科学研究費交付金の創設によって誕生した自然科学の幅広い分野を振興する体制が、戦時から戦後へと受け継がれたと、結論づけた。応用研究を重視し特定分野の研究に注力する日本学術振興会研究費の存在は、科学研究費交付金の万遍のない配分を維持することを手助けしていたと言えるだろう。


科学史研究2015年1月号(No.272)

科学史研究2015年1月号(No.272)

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  • 出版社/メーカー: コスモピア
  • 発売日: 2015/02/04
  • メディア: 雑誌



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文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に― [論文紹介]

水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に―」『科学史研究』第52巻、No.266、2013年6月、70-80頁。

<概要>
 1943年8月、東条内閣は、「科学研究の緊急整備方策要綱」を閣議決定し、戦争の遂行を科学研究の唯一絶対の目標とすることを宣言した。先行研究は、閣議決定を境に、文部省の科学動員が、一般的な科学振興から、応用的な側面を重視した科学の戦力化へと大きく転換したことを共通に指摘している。しかし、1943年の閣議決定後、科学研究の戦力化という方針でまとめきれない施策が、数多く実施されたことも事実である。先行研究では、科学の戦力化という方針に沿う施策を主要な分析対象としているため、こうした点については、十分な検討がなされてこなかった。
 本論では、主に、科学論文題目速報事業および翻訳事業の分析を通じて、1943年の閣議決定前後における文部省の科学動員について検討した。科学論文題目速報事業および翻訳事業は、1942年以降、海外文献の入手難を背景として開始された事業であり、科学振興を目指していた。本論文では、現場の研究者と文部官僚の緩やかな連携により両事業が開始、拡大していったことや、両事業が科学の幅広い分野を対象にしたものだったことを示し、閣議決定が額面通りにはおこなわれていなかった実態を明らかにした。資料としては、2007年9月に公開された国会図書館憲政資料室所蔵の犬丸秀雄関係文書を用いた。
 まず、第2節で科学論文題目速報事業について分析した。1941年後半以降、対日封鎖の拡大によって、日本国内では、海外学術雑誌の入手がほぼ途絶することとなった。科学論文題目速報事業は、1942年4月、海外学術雑誌の途絶に苦しむ大学等の研究機関からの訴えを受け、立案された。速報対象雑誌は、ドイツにおける理学、工学、医学、農学分野の約100冊で、各分野の専門家の推薦を基に選ばれることになっていた。
 1942年8月に題目速報を開始すると、研究者から詳報を求める依頼が届き、文部省は、この依頼に基づいた抄録を発行した。1943年後半以降、速報事業における主要な情報伝達手段は、電信による論文題目の送信から、雑誌郵送へと様変わりすることとなった。到着雑誌は、各分野からバランスよく選ばれていた。到着雑誌のなかには、日本におけるペニシリン研究の発端になったといわれる論文を掲載した1943年8月発行の医学雑誌も含まれていた。1944年後半、ベルリンにおける空襲等の激化によって、事業実施の環境が悪化するなかでも、事業の継続、拡大に向けた努力がおこなわれ、ドイツから日本への雑誌郵送に加えて、日本からドイツへの学術文献送付も試みられたが、1945年3月頃、速報事業は終焉を迎えた。
 以上のように、速報事業は、研究者の要望を受けて立案され、その後も、研究機関からの様々な要請を受け、事業を拡大した。事業は、軍事上の目的から特定分野の情報を速報するのではなく、幅広い分野の学術情報を国内に速報することで、国内の科学研究全般を振興しようとするものだった。
 第3節では、翻訳事業について分析した。翻訳事業は、文部省の事業として、海外の自然科学分野の書籍を翻訳しようとするもので、1943年7月に着手された。速報事業が海外における最新の学術論文の速報を担ったのに対して、翻訳事業は、ここ15年間程度に出版された海外学術書籍の翻訳を企図していた。翻訳する書籍の選定においては、科学教育に資すること、および、科学研究の促進に役立つことが重視された。この時期に、海外の学術文化の摂取を容易にするために、翻訳事業が取り組まれた背景には、1941年以降に実施された大学・専門学校等での修業年限の短縮があった。修業年限の短縮により、教育及び研究面で困難に直面した大学からは、科学教育や科学研究の促進につながる、翻訳事業の実施を求める声が高まった。書籍選定では、大学における教育研究上の必要性を反映して、基礎的な科学教育や、幅広い分野の科学研究に役立つ書籍が多く選ばれた。翻訳事業が一般的な科学振興を目的にしていたことは、終戦を挟んで、事業が継続されたことからもわかる。終戦までに出版されなかった文献の一部は、戦後、文部省科学教育局に引き継がれ、少なくとも4件が、戦後、出版されている。
 両事業の推移からは、研究者の要望に沿いながら、文部省が、1943年の閣議決定以降も、科学の戦力化からは程遠い施策を拡充していったことがわかる。1941年以降、海外学術情報の途絶や修業年限の短縮等により、もともと貧弱な教育研究環境は、さらに悪化し、現場の研究者からは、これらの問題への対処を求める声が上がった。一方、文部省科学局には、科学振興に意欲的な官僚がおり、研究者の意向を取り入れることにも積極的だった。こうした状況の下で、両者の緩やかな連携により、一般的な科学振興を目的とした施策が戦争末期まで拡大していったのである


科学史研究 2013年 06月号 [雑誌]

科学史研究 2013年 06月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/06/28
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アジア太平洋戦争期における旧陸軍の航空研究機関への期待 [論文紹介]

水沢光「アジア太平洋戦争期における旧陸軍の航空研究機関への期待」『科学史研究』
第43巻、No.229、2004年、22-30頁。

<概要>
航空技術は、第一次世界大戦前から、先進工業国が共通に大規模に国家として研究開発を支援した技術であった。アジア太平洋戦争期の日本では、航空技術に関する研究開発が、民間航空機製造会社・陸軍・海軍・各官庁でそれぞれおこなわれた。このうち軍部とその試作命令を受ける民間航空機製造会社との関係は、ある程度明らかであろう。また、政府の科学技術動員の中枢機関として誕生した技術院でも、航空技術に関する研究が中心的課題であったことが知られている。技術院は行政官庁であったため、実際の研究活動は、技術院から委託・命令を受けた官民における研究機関でおこなわれた。技術院が指導したこれらの研究活動が、軍部・民間航空機製造会社における研究開発とどのような関係にあったのかについては、これまでの先行研究 では十分に解明されていない。このため、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割は不明のままになっている。
 本研究では、陸軍による、陸軍部外の航空研究機関への期待に注目する 。1930年代後半、陸軍内には、陸軍航空技術研究所という航空研究機関が存在した。この陸軍内部の研究機関とは別に、外部の航空研究機関に対しても、陸軍は強い期待を持っていたのである。本研究で扱う航空研究機関とは、主に東京帝国大学航空研究所と中央航空研究所である 。東京帝国大学航空研究所は、1940年頃から陸軍の委託研究を受け入れ、それまでの学術研究一辺倒から大きくその性格が変化した。また、1942年の技術院の設置にともない、技術院の管轄下に置かれることになった中央航空研究所も、陸軍の要求を契機に設立された研究機関であった。本研究では、こうした航空研究機関でおこなわれた研究課題を、陸軍がどのように位置づけていたのかを分析することで、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割を明らかにする。資料としては、主に、陸軍がドイツ・イタリアへ派遣した2つの視察団の報告書を用いた。
 第1章で、1937年までの陸軍による航空研究機関への期待の特徴と、そうした期待の背景を明らかにする。第2章では、陸軍からの要求による、東京帝国大学航空研究所の性格の変化を分析する。第3章では、海外情報の途絶を受けて、1941年に陸軍が「独創的技術発達ノ温床」を求めたことを述べる。最後に第4章で、こうした陸軍の主張が、技術院での研究課題につながったことを明らかにする。

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陸軍における「航空研究所」設立構想と技術院の航空重点化 [論文紹介]

水沢光「陸軍における『航空研究所』設立構想と技術院の航空重点化」『科学史研究』
第42巻、No.225、2003年、31-39頁。

<概要>
 科学・技術への国家的支援が現在のような形で制度化されるのは、2つの世界大戦期においてである。日本においては、特にアジア・太平洋戦争中の取り組みによって、科学・技術の国家的な振興が本格化した。当時の日本では、陸軍・海軍・各官庁がそれぞれ科学技術動員を行った。なかでも技術院は、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて、政府の科学技術動員の中枢機関として設立されたものである。技術院は、その官制にも明記されているように、航空技術の振興を中心とする行政機関であった。
 技術院に関しては、これまで、技術官僚のイニシアチブが注目されてきた。先行研究は、日本の科学技術動員は技術官僚のイニシアチブで始まったと指摘されてきた。技術官僚によって当初計画された技術院は、技術行政の統一機関を目指すものであり、その行政領域はあらゆる部門の科学技術を対象とする計画であったことが知られている。こうした技術官僚の計画に対し、陸軍から行政対象を航空技術に絞るよう強い要求があり、技術院は航空技術の刷新向上を中心的な行政対象とする機関となったことが一般に知られている。
 本研究では、技術院設立時以前からの航空技術に関する陸軍での構想とそれに基づく要求に注目する。技術院の設立に関する先行研究では、技術官僚のイニシアチブに注目する一方で、航空重視を求める陸軍の要求を、技術官僚の技術院構想を「ゆがめた」ものと評価されてきた。そこでは、陸軍の要求は外圧として唐突に現れたものとして描かれた。本研究では、この陸軍の要求がどのような経緯で出てきたのか、あるいはこれ以前の時期に陸軍が航空技術に対してどのような要求を揚げていたのかを分析し、技術院の活動に影響を与えたもう一つの流れを明らかにする。
 本研究では、まず第1節で、1930年代後半の陸軍における「航空省」及び「航空研究所」設立構想を取り上げる。第2節では、この構想に対して海軍・逓信省航空局がそれぞれの思惑から反対した結果、1937年に設立された中央航空研究所は海軍主導で建設が進んだことを述べる。第3節では、陸軍が、中央航空研究所の運営における主導権の回復をねらい、技術院の航空重点化を主張すると共に、中央航空研究所を技術院の監督下に置くことを主張したことを明らかにする。




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