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第3章―「独創的技術発達ノ温床」を要求― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。

<第3章の概要>
対日技術封鎖の本格化
アメリカの技術封鎖は、1939年12月の航空揮発油製造装置の輸出禁止から始まり、その後、それ以外の製品の製造技術・特許・図面・設備・技術者の派遣及び招聘に及んだ。NACAの技術報告であるTechnical notesも、1940年5月発行の763号までしか日本国内では入手できなかった。

視察団(1941年)の提言
 対日技術封鎖が本格化するなかで、 1940年9月の日独伊三国同盟条約の締結を受けて、1940年12月から1941年6月に再び視察団がドイツ・イタリアへと派遣された。1941年の視察団は、海外情報の途絶についての危惧を初めて表明した。視察団は、従来入手できた欧米研究機関の発表資料がドイツを除いては入手できない状況を指摘し、「独創的技術発達ノ温床ヲ培養」することを求めた。新技術の開発能力を向上すること、現状における一般的趨勢にとらわれ捉われることなく、広範囲の研究を継続することを主張したのである。ここで言う「独創的技術」がどのような内容を意味するかは、ドイツの例によりうかがい知ることができる。ドイツでは、不断の研究継続の成果として、航空用重油発動機・燃料噴射式発動機等を実用化したと述べている 。「独創的技術」とは、こうした発動機等を指すものと考えられる。1941年の視察団は、1937年の視察団とは異なり、特定の軍事目的とひとまず切り離された形で、新技術の開発能力の向上を求めたのである。
 1941年の視察団は、具体的な新技術をあげて研究の方向性を統制しようとした。報告で提起されたのは、成層圏飛行に関する機体・発動機・装備品・航空医学や、強化木材プロペラ、大馬力高高度用発動機、燃料噴射式発動機、液冷発動機である。これらの技術は、いずれも、ドイツにおいて進んでいる最新の研究課題であった。1941年の視察団の最大の特徴は、こうした研究課題を国内でも追求しようとした点である。

帰国後の視察団メンバー
 1941年の視察団報告は、1937年の視察団とは異なり、陸軍省を通じて内閣に影響を与えることはなかった。1941年の視察団団長であった山下奉文(陸軍航空本部長)は、帰国後、陸軍中央部から、旧「満州」の地方の司令官へと左遷された。山下の左遷は、空軍独立に関して陸軍中央部と意見が異なったためだったといわれている。一方で、視察団航空班のメンバーは航空本部の幹部に留まったので。視察団報告がまとめた航空研究機関への要求は、航空本部を通じて研究機関に影響を与えたと考えられる。

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