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陸軍における「航空研究所」設立構想と技術院の航空重点化 [論文紹介]

水沢光「陸軍における『航空研究所』設立構想と技術院の航空重点化」『科学史研究』
第42巻、No.225、2003年、31-39頁。

<概要>
 科学・技術への国家的支援が現在のような形で制度化されるのは、2つの世界大戦期においてである。日本においては、特にアジア・太平洋戦争中の取り組みによって、科学・技術の国家的な振興が本格化した。当時の日本では、陸軍・海軍・各官庁がそれぞれ科学技術動員を行った。なかでも技術院は、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて、政府の科学技術動員の中枢機関として設立されたものである。技術院は、その官制にも明記されているように、航空技術の振興を中心とする行政機関であった。
 技術院に関しては、これまで、技術官僚のイニシアチブが注目されてきた。先行研究は、日本の科学技術動員は技術官僚のイニシアチブで始まったと指摘されてきた。技術官僚によって当初計画された技術院は、技術行政の統一機関を目指すものであり、その行政領域はあらゆる部門の科学技術を対象とする計画であったことが知られている。こうした技術官僚の計画に対し、陸軍から行政対象を航空技術に絞るよう強い要求があり、技術院は航空技術の刷新向上を中心的な行政対象とする機関となったことが一般に知られている。
 本研究では、技術院設立時以前からの航空技術に関する陸軍での構想とそれに基づく要求に注目する。技術院の設立に関する先行研究では、技術官僚のイニシアチブに注目する一方で、航空重視を求める陸軍の要求を、技術官僚の技術院構想を「ゆがめた」ものと評価されてきた。そこでは、陸軍の要求は外圧として唐突に現れたものとして描かれた。本研究では、この陸軍の要求がどのような経緯で出てきたのか、あるいはこれ以前の時期に陸軍が航空技術に対してどのような要求を揚げていたのかを分析し、技術院の活動に影響を与えたもう一つの流れを明らかにする。
 本研究では、まず第1節で、1930年代後半の陸軍における「航空省」及び「航空研究所」設立構想を取り上げる。第2節では、この構想に対して海軍・逓信省航空局がそれぞれの思惑から反対した結果、1937年に設立された中央航空研究所は海軍主導で建設が進んだことを述べる。第3節では、陸軍が、中央航空研究所の運営における主導権の回復をねらい、技術院の航空重点化を主張すると共に、中央航空研究所を技術院の監督下に置くことを主張したことを明らかにする。




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