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アジア太平洋戦争期における旧陸軍の航空研究機関への期待 [論文紹介]

水沢光「アジア太平洋戦争期における旧陸軍の航空研究機関への期待」『科学史研究』
第43巻、No.229、2004年、22-30頁。

<概要>
航空技術は、第一次世界大戦前から、先進工業国が共通に大規模に国家として研究開発を支援した技術であった。アジア太平洋戦争期の日本では、航空技術に関する研究開発が、民間航空機製造会社・陸軍・海軍・各官庁でそれぞれおこなわれた。このうち軍部とその試作命令を受ける民間航空機製造会社との関係は、ある程度明らかであろう。また、政府の科学技術動員の中枢機関として誕生した技術院でも、航空技術に関する研究が中心的課題であったことが知られている。技術院は行政官庁であったため、実際の研究活動は、技術院から委託・命令を受けた官民における研究機関でおこなわれた。技術院が指導したこれらの研究活動が、軍部・民間航空機製造会社における研究開発とどのような関係にあったのかについては、これまでの先行研究 では十分に解明されていない。このため、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割は不明のままになっている。
 本研究では、陸軍による、陸軍部外の航空研究機関への期待に注目する 。1930年代後半、陸軍内には、陸軍航空技術研究所という航空研究機関が存在した。この陸軍内部の研究機関とは別に、外部の航空研究機関に対しても、陸軍は強い期待を持っていたのである。本研究で扱う航空研究機関とは、主に東京帝国大学航空研究所と中央航空研究所である 。東京帝国大学航空研究所は、1940年頃から陸軍の委託研究を受け入れ、それまでの学術研究一辺倒から大きくその性格が変化した。また、1942年の技術院の設置にともない、技術院の管轄下に置かれることになった中央航空研究所も、陸軍の要求を契機に設立された研究機関であった。本研究では、こうした航空研究機関でおこなわれた研究課題を、陸軍がどのように位置づけていたのかを分析することで、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割を明らかにする。資料としては、主に、陸軍がドイツ・イタリアへ派遣した2つの視察団の報告書を用いた。
 第1章で、1937年までの陸軍による航空研究機関への期待の特徴と、そうした期待の背景を明らかにする。第2章では、陸軍からの要求による、東京帝国大学航空研究所の性格の変化を分析する。第3章では、海外情報の途絶を受けて、1941年に陸軍が「独創的技術発達ノ温床」を求めたことを述べる。最後に第4章で、こうした陸軍の主張が、技術院での研究課題につながったことを明らかにする。

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陸軍における「航空研究所」設立構想と技術院の航空重点化 [論文紹介]

水沢光「陸軍における『航空研究所』設立構想と技術院の航空重点化」『科学史研究』
第42巻、No.225、2003年、31-39頁。

<概要>
 科学・技術への国家的支援が現在のような形で制度化されるのは、2つの世界大戦期においてである。日本においては、特にアジア・太平洋戦争中の取り組みによって、科学・技術の国家的な振興が本格化した。当時の日本では、陸軍・海軍・各官庁がそれぞれ科学技術動員を行った。なかでも技術院は、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて、政府の科学技術動員の中枢機関として設立されたものである。技術院は、その官制にも明記されているように、航空技術の振興を中心とする行政機関であった。
 技術院に関しては、これまで、技術官僚のイニシアチブが注目されてきた。先行研究は、日本の科学技術動員は技術官僚のイニシアチブで始まったと指摘されてきた。技術官僚によって当初計画された技術院は、技術行政の統一機関を目指すものであり、その行政領域はあらゆる部門の科学技術を対象とする計画であったことが知られている。こうした技術官僚の計画に対し、陸軍から行政対象を航空技術に絞るよう強い要求があり、技術院は航空技術の刷新向上を中心的な行政対象とする機関となったことが一般に知られている。
 本研究では、技術院設立時以前からの航空技術に関する陸軍での構想とそれに基づく要求に注目する。技術院の設立に関する先行研究では、技術官僚のイニシアチブに注目する一方で、航空重視を求める陸軍の要求を、技術官僚の技術院構想を「ゆがめた」ものと評価されてきた。そこでは、陸軍の要求は外圧として唐突に現れたものとして描かれた。本研究では、この陸軍の要求がどのような経緯で出てきたのか、あるいはこれ以前の時期に陸軍が航空技術に対してどのような要求を揚げていたのかを分析し、技術院の活動に影響を与えたもう一つの流れを明らかにする。
 本研究では、まず第1節で、1930年代後半の陸軍における「航空省」及び「航空研究所」設立構想を取り上げる。第2節では、この構想に対して海軍・逓信省航空局がそれぞれの思惑から反対した結果、1937年に設立された中央航空研究所は海軍主導で建設が進んだことを述べる。第3節では、陸軍が、中央航空研究所の運営における主導権の回復をねらい、技術院の航空重点化を主張すると共に、中央航空研究所を技術院の監督下に置くことを主張したことを明らかにする。




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日中戦争下における基礎研究シフト―科学研究費交付金の創設― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-」『科学史研究』第51巻、No.264、2012年12月、210-219頁。

<概要>
 1939年3月に創設された科学研究費交付金は、現在の科学研究費補助金(科研費)の前身であり、日本における研究費補助の中核として、戦後に引き継がれた制度である。科学研究費交付金の予算規模は、それまであった科学研究奨励費や日本学術振興会の研究費などに比べて、格段に大きかった。また、基礎的研究に重点を置くという特徴をもっていた。日本の科学技術動員は、マンハッタン計画などの大規模な研究開発プロジェクトの遂行に力を注いだ欧米諸国の科学技術動員とは対照的に、基礎科学の振興を含むものであったことが、先行研究によって指摘されてきた。
 本論では、戦時下にもかかわらず、基礎的研究を重視する政策が実行されるに至った社会経済的な背景を明らかにすることを目指した。まず、第2節では、文部省編『学制百年史』が科学研究費交付金設置の理由だと指摘した科学封鎖に関して、科学研究費交付金が設置された時点では、まだ科学封鎖は本格化していなかったことを示した。考察の際には、いつごろから封鎖の動きが顕著になるのかを確定するため、1930年代後半から太平洋戦争開始までの各時期における、海外学術情報の入手状況を分析した。分析の対象は、主に、海外の書籍および雑誌の輸入状況とした。また、対日封鎖の進展を総合的に理解するために、軍需製品の対日禁輸措置や日本人留学生の受け入れ制限についても取り上げた。ついで、第3節では、日中戦争下において、軍需産業や代用品工業に関わる応用研究が進展する中で、研究環境の不備が顕在化し、研究機関の拡充や基礎的研究の振興が求められるようになったことを明らかにした。科学研究費交付金創設のもとになった科学振興調査会の設置は、科学界からの科学振興の提言をきっかけに具体化したものだった。分析にあたっては、科学者や科学振興調査会が科学振興を提言する上での理由や裏付けが、どのようなものだったのか、また、そうした理由や裏付けが、戦時の産業技術の在り方を反映してどのように変化していったのかに着目した。


科学史研究 2012年 12月号 [雑誌]

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/12/25
  • メディア: 雑誌



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