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<リンク集>
アジア歴史資料センター
通称アジ歴。約3000万画像の資料を公開中。
国立公文書館
防衛省防衛研究所
戦史資料を所蔵。2016年夏に市ヶ谷に移転。
国立国会図書館憲政資料室
吉川弘文館
1857年(安政4)創業。日本史関連の老舗出版社。
東京大学出版会
1951年設立。東京大学の出版部。多くの学術書を出版。
アジア歴史資料センター
通称アジ歴。約3000万画像の資料を公開中。
国立公文書館
防衛省防衛研究所
戦史資料を所蔵。2016年夏に市ヶ谷に移転。
国立国会図書館憲政資料室
吉川弘文館
1857年(安政4)創業。日本史関連の老舗出版社。
東京大学出版会
1951年設立。東京大学の出版部。多くの学術書を出版。
太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容 [論文紹介]
水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。
<目次>
序章「はじめに」
第1章「航空研究機関への期待の出現」
第2章「航空研究機関での応用研究の進展」
第3章「『独創的技術発達ノ温床』を要求」
第4章「技術院設立と科学技術振興」
第5章「まとめ」
<概要>
本論文「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」は、序章及び本論5章からなる。
序章では、科学技術政策が国の政策として展開されるのは、国際的にも第二次世界大戦を通じてであり、本論文の目的が、航空技術に関する旧日本陸軍の研究政策に焦点をあて、従来の先行研究で十分検討されて来なかった戦時動員の実態を分析することであることを示した。
第1章「航空研究機関への期待の出現」では、日本の航空技術が自立期に入ったとされる1930年代に、陸軍の航空技術に対する関心が増大したこと、1935年に欧米に送られた航空視察団の報告書「陸軍航空視察団欧米航空事情視察報告」で、航空省及び国立中央研究所の設立が構想されたこと、また、1938年の「ドイツにおける航空視察報告」において、国内の航空研究機関が、工業化に役立つ応用研究を行っていないと主張されたことを明らかにした。
第2章「航空研究機関での応用研究の進展」では、陸軍の主張が、陸軍省を通じて内閣への要求となり、国の航空研究機関に影響を与えたことを明らかにした。1938年に応用研究を目的として設立された中央航空研究所は、海軍と逓信省の連繋で設置が進められたものの、元来は陸軍の構想に基づくものであったこと、また、学術研究が中心であった東京帝国大学航空研究所でも、1938年以降、陸軍からの要求として高々度航空機、高速航空機、長距離航空機などに関する大規模な委託研究が受け入れられたことを示した。
第3章「『独創的技術発達ノ温床』を要求」では、1940年前後に、日本に対する連合国側の技術・情報封鎖が本格化したことにより、陸軍が基礎的な研究の重要性を認識したことを明らかにした。1941年に陸軍はドイツ・イタリアに視察団を派遣し、海外情報途絶に対する危惧を初めて表明するとともに、対日技術封鎖に対抗するために、広範囲にわたる研究を継続し「独創的技術発達ノ温床ヲ培養」することを強く求めたことを示した。
第4章「技術院設立と科学技術振興」では、技術院を構想する過程の中で、「基礎研究」という言葉が初めて行政文書の中に登場したこと、学術行政、産業行政をそれぞれ掌握する文部省、商工省の掌握分野に抵触しない形で、技術院が基礎研究、応用研究、工業化研究を一貫して統制する機関として創設されたことを明らかにし、また、陸軍の強い要求で、技術院が航空技術に重点を置くことになったことから、技術院における航空技術関係の研究課題の多くが、陸軍がドイツの視察から得た成層圏飛行などに関連したテーマであったことを具体的に提示した。
第5章「まとめ」では、論文全体の論点を総括して、後発工業国であった日本が、1930年代後半の技術・情報封鎖を受けて、応用研究重視の政策を修正し、戦時でありながら基礎的研究の追求を企図したと結論した。また、本研究の科学技術政策上の含意を、欧米からの日本に対する「基礎研究ただ乗り論」対応として、1980年代後半に生まれた基礎研究重視政策と対比して、提示した。
本論文は、従来必ずしも実証的に明確でなかった第二次世界大戦初期の日本の航空技術研究政策の歴史的展開を、欧米、とりわけドイツの調査報告を受けて、陸軍の研究戦略が進展する過程に沿って明らかにしたものである。
<追記>
博士論文が下記書籍で紹介されました。
橋本毅彦『飛行機の誕生と空気力学の形成―国家的研究開発の起源をもとめて―』東京大学出版会、2012年。
<目次>
序章「はじめに」
第1章「航空研究機関への期待の出現」
第2章「航空研究機関での応用研究の進展」
第3章「『独創的技術発達ノ温床』を要求」
第4章「技術院設立と科学技術振興」
第5章「まとめ」
<概要>
本論文「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」は、序章及び本論5章からなる。
序章では、科学技術政策が国の政策として展開されるのは、国際的にも第二次世界大戦を通じてであり、本論文の目的が、航空技術に関する旧日本陸軍の研究政策に焦点をあて、従来の先行研究で十分検討されて来なかった戦時動員の実態を分析することであることを示した。
第1章「航空研究機関への期待の出現」では、日本の航空技術が自立期に入ったとされる1930年代に、陸軍の航空技術に対する関心が増大したこと、1935年に欧米に送られた航空視察団の報告書「陸軍航空視察団欧米航空事情視察報告」で、航空省及び国立中央研究所の設立が構想されたこと、また、1938年の「ドイツにおける航空視察報告」において、国内の航空研究機関が、工業化に役立つ応用研究を行っていないと主張されたことを明らかにした。
第2章「航空研究機関での応用研究の進展」では、陸軍の主張が、陸軍省を通じて内閣への要求となり、国の航空研究機関に影響を与えたことを明らかにした。1938年に応用研究を目的として設立された中央航空研究所は、海軍と逓信省の連繋で設置が進められたものの、元来は陸軍の構想に基づくものであったこと、また、学術研究が中心であった東京帝国大学航空研究所でも、1938年以降、陸軍からの要求として高々度航空機、高速航空機、長距離航空機などに関する大規模な委託研究が受け入れられたことを示した。
第3章「『独創的技術発達ノ温床』を要求」では、1940年前後に、日本に対する連合国側の技術・情報封鎖が本格化したことにより、陸軍が基礎的な研究の重要性を認識したことを明らかにした。1941年に陸軍はドイツ・イタリアに視察団を派遣し、海外情報途絶に対する危惧を初めて表明するとともに、対日技術封鎖に対抗するために、広範囲にわたる研究を継続し「独創的技術発達ノ温床ヲ培養」することを強く求めたことを示した。
第4章「技術院設立と科学技術振興」では、技術院を構想する過程の中で、「基礎研究」という言葉が初めて行政文書の中に登場したこと、学術行政、産業行政をそれぞれ掌握する文部省、商工省の掌握分野に抵触しない形で、技術院が基礎研究、応用研究、工業化研究を一貫して統制する機関として創設されたことを明らかにし、また、陸軍の強い要求で、技術院が航空技術に重点を置くことになったことから、技術院における航空技術関係の研究課題の多くが、陸軍がドイツの視察から得た成層圏飛行などに関連したテーマであったことを具体的に提示した。
第5章「まとめ」では、論文全体の論点を総括して、後発工業国であった日本が、1930年代後半の技術・情報封鎖を受けて、応用研究重視の政策を修正し、戦時でありながら基礎的研究の追求を企図したと結論した。また、本研究の科学技術政策上の含意を、欧米からの日本に対する「基礎研究ただ乗り論」対応として、1980年代後半に生まれた基礎研究重視政策と対比して、提示した。
本論文は、従来必ずしも実証的に明確でなかった第二次世界大戦初期の日本の航空技術研究政策の歴史的展開を、欧米、とりわけドイツの調査報告を受けて、陸軍の研究戦略が進展する過程に沿って明らかにしたものである。
<追記>
博士論文が下記書籍で紹介されました。
橋本毅彦『飛行機の誕生と空気力学の形成―国家的研究開発の起源をもとめて―』東京大学出版会、2012年。
飛行機の誕生と空気力学の形成: 国家的研究開発の起源をもとめて
- 作者: 橋本 毅彦
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2012/09/25
- メディア: 単行本