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序章―はじめに―第二次世界大戦期の科学技術動員― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。

<序章の概要>
はじめに
 今日当然とみなされる科学・技術への国家的な支援は、第二次世界大戦時の科学技術動員を直接の起源としている。日本においては、特に太平洋戦争期の科学技術動員によって、科学・技術への国家的振興が本格化した。本論文は、今日自明の事柄とみなされる、科学・技術政策の源流を歴史的に分析するものである。
 論文では、航空技術を中心に扱う。航空技術は、太平洋戦争期の科学技術動員の中心的課題であり、第二次世界大戦期のアメリカ・イギリスの科学技術動員でも、まず動員が進められたのは、共通して航空機関係のものであった。日本においても、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて政府の科学技術動員の中枢機関として設立された技術院は、その官制に明記されているように、航空技術の振興を中心とする行政機関であった。

本研究の課題
 太平洋戦争期の日本では、三菱重工・中島飛行機・川崎航空機工業などの航空機製造会社で開発・製造がおこなわれる一方で、陸軍・海軍・各官庁それぞれに、航空技術に関する研究機関が存在していた。1941年の時点では、海軍には海軍航空廠、陸軍には陸軍航空技術研究所、逓信省航空局に中央航空研究所、文部省の管轄下に東京帝国大学航空研究所があった。本論文では、航空機製造会社ではなく、研究機関、特に軍の外部にあった、中央航空研究所と東京帝国大学航空研究所に焦点をあてる。東京帝国大学航空研究所は、本文中で詳しく述べるように、1940年頃から陸軍の委託研究を受け入れ、それまでの学術研究一辺倒から大きくその性格が変化した。また、1942年の技術院の設置にともない、技術院の管轄下に置かれることになった中央航空研究所も、陸軍の要求を契機に設立された研究機関であった。本研究では、こうした航空研究機関でおこなわれた研究課題を、陸軍がどのように位置づけていたのかを分析することで、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割を明らかにしたい。

科学技術動員への関心の高まり
 第二次世界大戦期の科学技術動員に関しては、アメリカ・イギリスでの原爆開発やレーダー開発などを対象に、多くの研究がなされてきた。科学史分野でも、いわゆるビッグ・サイエンスや、冷戦期に顕著な成長を遂げた軍産学複合体制などの起源として早くから注目され、研究が進められてきた。
 これに対して、日本の科学技術動員に関しては、関連資料の多くが終戦時に焼却処分になったこともあり、長らく研究が進んでいなかった。近年になって、新たに資料が発見・公開され、当事者の回想によらない、実証的な研究が相次いで発表されている。日本科学史学会が、2003年度年会において、シンポジウム「日本戦時科学史の現状と課題」を開催するなど、関心が高まりつつある。

先行研究
 先行研究では、日本の科学技術動員の特徴として、科学技術の振興をつねに底流とした動員がおこなわれ、アメリカ等で見られた大規模なプロジェクト研究がおこなわれることはなかったと指摘している。山崎正勝は、『井上匡四郎文書』に基づき、技術院において実際に行われた科学技術動員の制度的な特徴を論じている。山崎は、技術院における科学技術動員の特徴として、当初から科学技術振興と動員の二重の構造をもっていたこと、基礎研究を大きく含む研究動員がおこなわれたことを指摘している。また、広重徹は、日本では、近代的研究体制を作りだすことを、科学技術動員と並行しておこなわなければならなかったと述べ、戦時中に支出された研究費の膨張が示すように、動員体制のもとで科学研究活動は空前の規模に達したとしている。
 技術院に関しては、これまで、技術官僚のイニシアチブが注目されてきた。広重徹は、科学技術新体制について包括的に分析を行うなかで、日本の科学技術動員は技術官僚のイニシアチブで始まったと指摘している。また、大淀昇一は、企画院の技術官僚であった宮本武之輔を通して、官僚組織内における技術官僚の地位向上運動とからめて、「科学技術新体制確立要綱」の成立までを詳細に分析している。「技術者運動」は、官僚組織内の地位向上と国家政策への発言権の拡大をめざすものとして、大正時代から続いてきたものであった。科学・技術の質が勝敗を決する総力戦大戦下で、こうした「技術者運動」が活発化し、技術官僚の政治参画が実現したことを、大淀は実証的に明らかにしている。大淀は、技術官僚によって当初計画された技術院は、技術行政の統一機関を目指すものであり、その行政領域はあらゆる部門の科学技術を対象とする計画であったことを実証的に明らかにしている。
 技術院の設立に際して、行政対象を航空技術に絞るように陸軍が強い要求を行い、こうした陸軍からの要求の結果、技術院は航空技術の刷新向上を中心的な行政対象とする機関となったことが一般に知られている。沢井実は、『国策研究会文書』の分析を通じて、技術院の設立時の政策決定過程に焦点をあて、当時の陸軍の要求をも詳細に明らかにしている。一方、山崎正勝は、技術院において、実際に技術開発の中心が航空技術に置かれたことを明らかにしている。また、市川浩は、技術院を中心とした戦時中の研究計画に関し実証的に分析し、戦時研究の分散性・小規模性を指摘している。

本研究の特徴
 以上のように実証的な研究が進んでいるにもかかわらず、科学技術動員の進展と、当時の日本における研究開発(R&D)の置かれた具体的な状況との関係が明らかにされているとは言えない。例えば、広重の研究では、主に「科学」に重点がおかれ、大淀の研究では、官僚組織内での技術官僚の動向に焦点を当てているため。研究開発や技術革新に関する具体的な記述は乏しい。
 技術院は行政官庁であったため、実際の研究活動は、技術院から委託・命令を受けた官民における研究機関でおこなわれた。技術院が指導したこれらの研究活動が、軍部・民間航空機製造会社における研究開発とどのような関係にあったのかについては、これまでの先行研究では十分に解明されていない。このため、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割は不明のままになっている。
 本論文では、これまで、ばらばらに扱われてきた、政府と軍部の研究開発体制を、関連させて分析することにより、太平洋戦争期において、軍部が政府の研究機関に求めた研究開発上の役割が変化したことを明らかにする。応用研究の推進一辺倒から、「比較的基礎的ト見ラルヽ科学技術」を含むものへと、航空研究戦略が変容したことを示す。そして、海外技術からの自立期にあった後発工業国・日本における、研究開発の置かれた状況と関係付けて、日本の科学技術政策の特徴を分析する。その際、海外技術依存からの脱却を強く望んでいた軍部の要求に焦点をあてる。
 資料としては、主に防衛庁防衛研究所所蔵の資料を用いた。これらの資料は、旧日本軍が作成した公文書や軍人の業務日誌からなり、防衛庁防衛研究所戦史室で書かれた『戦史叢書』で使われるなど、軍事史分野の研究としては、広く使われてきた。しかし、科学技術動員という視点からは、ほとんど扱われていない。こうした資料を利用することで、当時の航空研究機関に対する陸軍の認識を明らかにできる。

論文の構成
 第1章で、1930年代の陸軍による、航空研究機関への期待の特徴と、そうした期待の背景を明らかにする。第2章では、陸軍の期待によって、航空研究機関での応用研究が進展したことを述べる。第3章では、アメリカからの技術封鎖・情報封鎖を受けて、1941年に陸軍が、航空研究機関への期待を変化させたことを明らかにする。最後に、第4章で、こうした陸軍の主張により、航空研究機関が「新技術の開発」に向かったことを述べる。

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